大正15年12月25日に大正天皇が葉山御用邸において48歳で崩御され、【昭和】という新しい年号が始まりました。
年末の崩御ということで、昭和元年は1週間ほどでしたが、【昭和】という年号に関しては、枢密顧問官によって会議を開き一度は【光文】と決まったものの、正式発表前に東京日日新聞が『新元号は光文である』と号外を出したことから、急遽【昭和】に切り替えられたとも言われています。
真偽の程は定かではありませんが、この時の報道は【昭和の大誤報】とも言われています。
この報を受け内務省からは歌舞音曲の停止が言い渡されます。
園芸娯楽放送は中止となり、浅草をはじめ繁華街などの色とりどりの看板類は全て取り払われて喪章付きの日の丸がが掲げられ、また繁華街では喪章売りが立つようになりました。
そして1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が亡くなり(ご崩御)【平成】となりました、そして・そして、2019.4.1に新元号【令和】が発表され、第126代令和天皇となり2019.5.1より【令和】となりました。
昭和もずいぶん昔になってしまいました。団塊世代は、ほぼ70歳を超え高齢者となりました、現在は昭和*年(右欄黄色地を参照)になります。幼少期、少年少女期、青年期、成人期と思い出に残る、おもちゃ、ニュース、流行りもの・・・などが、懐かしい年代になりました。このページはそのころを思い出し孫たちに伝えたいヒントとなるもの(語、事象・・・)を集めてみました。( 但し昭和21年以後です)
家族の姿の変化(世帯の家族類型別構成割合)家族の姿の変化を見てみると、
昭和55(1980)年時点では、全世帯の6割以上を「夫婦と子供(42.1%)」と「3世代等(19.9%)」の家族が占めていた。
令和2(2020)年時点では、「夫婦と子供」世帯の割合は25.0%に、「3世代等」世帯の割合も7.7%に低下している一方で、「単独」世帯の割合が38.0%と、昭和55(1980)年時点の19.8%と比較して2倍近く増加している。
補足:昭和を思い出すには、
スカパーで当時の映画を見ることで、思い出せますよ、時代劇でも当時の映画館で観た思い出もよみがえります。
昭和の思い出アンケートへ
回答後、“前の解答を表示”でアンケートの詳細が表示されます。適切な内容であれば上記に追記します。
邦画 5社 看板スター:昭和30年代から | ||||
日活 | 東映 | 東宝 | 大映 | 松竹 |
石原裕次郎 | 大川橋蔵 | 加山雄三 | 市川雷蔵 | 高田浩吉 |
新東宝という会社もあり1961年(昭和36年)に倒産し、丹波哲郎、菅原文太・・・は東映に、高島忠夫は東宝へ | ||||
昭和30年代から 映画館数、入場者数 | ||||
戦後の混乱のなか、いち早く復興した映画産業は、昭和33年には映画館の入場者数が年間11億人に達し、ピークとなった。しかし、昭和28年に始まったテレビ放送が普及するにつれて、入場者数は減少し続け、特にカラーテレビ放送が始まると、その動きは加速し、毎年1億人以上も減少するようになり、平成6年には1億2000万人あまりに落ち込んでいる。 入場者数の減少に伴い映画館数も減少の一途をたどり、映画全盛時代の昭和30年代前半には7000館を超えていたものが、平成4年以降は1700館台となっている。 |
*日中戦争
日中戦争 ( にっちゅうせんそう ) は、盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争である。 支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。
*太平洋戦争
太平洋戦争(たいへいようせんそう)は1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで行われた戦争であり、第二次世界大戦の局面の一つである。 日本などの枢軸国とアメリカ、イギリス、中国などの連合国の間で行われた戦争であった。1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃とマレー作戦によって始まったが、実際には以前から日中戦争(支那事変)が続いており、その継続としての側面もある。1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の無条件受諾による降伏を連合国に通告、翌8月15日の玉音放送で日本国民に終戦が伝えられた。同年9月2日、日本政府が降伏文書に署名し、戦争は正式に終結した。なお、これ以降もソ連軍の侵攻などにより戦闘状態は一部で継続した。
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石原裕次郎オンライン記念館より引用
最上段、画像2枚は戦後のレビューをしょっていた、浅草国際劇場と日劇です。 暮らしの情報満載モール